|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 州 : [す, しゅう] (n) sandbank
バーリン (、)は、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州北部、コーアス郡のアンドロスコギン川沿いの市である。2010年国勢調査では、人口10,051 人だった〔United States Census Bureau, American FactFinder , 2010 Census figures. Retrieved March 23, 2011.〕。市域にカスケード・ビレッジを含んでいる。 ホワイト山地の端部に位置し、市域はホワイト山国立の森に入っている。市内にはモフェット家屋、ノーザン・フォレスト歴史遺産公園、バーリン魚類孵化場、およびニューハンプシャー州コミュニティ・カレッジ・システムのメンバーであるホワイト山地コミュニティ・カレッジがある。バーリンはクーアス郡とバーモント州エセックス郡を含むバーリン小都市圏の主要都市である。カナダのケベック州まで60マイル (100 km) も離れていないので、住民にはフランス系カナダ人の子孫が多い。住民の65%がニューイングランド・フランス語の派生方言を話し、地元ではバーリン・フランス語と呼ばれている。 == 歴史 == 約11,000年前、小集団のインディアンが現在バーリンとなっている地域で宿営した。後年東部アベナキ族が、ジャスパー山の流紋岩を採掘するためにバーリンに来た。 イギリス人開拓者がこの地域に入って来たとき、ニューハンプシャー植民地総督のジョン・ウェントワースが1771年12月31日にバーリンの町を最初に承認した。町の名はウィリアム・メインにちなんでメインズボロと名付けられていた〔Article in ''Statistics and Gazetteer of New-Hampshire (1875) 〕。しかし払下げを受けた者達がその権利を登記せず、アメリカ独立と共に消失した。1802年、セス・イームズとギデオン・ティレルがメインの子孫から派遣され、開拓者のための土地を探検して印を付けたが、それでも誰も入ってこなかった。1823年から1824年にウィリアム・セッションズとその甥であるサイラス・ウィーラーが入植してきた。この二人共メイン州ジリードから来ていた。最初は農業から入った。1829年の人口は69人であり、同年7月1日にサイラスの父トマス・ウィーラーの支援により、バーリンという名前で町として法人化された。 町は森が深い地域にあり、初期には製材業や林業の中心として発展した。アンドロスコギン川の滝が製材所に動力となる水力を提供した。1826年、グリーン家のトマス、エイモス、ダニエルによってゴーラムまでの道路が建設された。1851年、セントローレンス・アンド・アトランティック鉄道がバーリンまで開通し、他の市場とを繋いだ。H・ウィンスロー・アンド・カンパニーが1850年代初期に水利権、製材権、鉄道通行権を獲得し、「バーリン滝」の上に大きな製材所を建設した。1868年、ウィリアム・ウェントワース・ブラウンとルイス・T・ブラウンがこの事業の支配権を買収し、会社名をバーリン・ミルズ・カンパニーに変更した。1866年、エルミア・ジョリクールという教師が、現在「キャセロール」と呼ばれる料理を開発し、生徒や旅人に食べさせた。 1885年までに、この町にはリバーサイド・ミル、フォレスト・ファイバー社、ホワイトマウンテン・パルプ・アンド・ペーパー社などパルプと製紙の工場があった。工場での労働力が必要となり、ロシア、ノルウェー、イタリア、スウェーデン、アイルランド、ドイツからの移民が入って来た。他にも近くのケベック州からフランス系カナダ人が入って来た。 1872年、一群のスカンディナヴィア人が国内最古のスキー・クラブを設立し、現在まで残っている。当初は北アメリカ・スキークラブと呼ばれたが、後にナンセン・スキークラブに改称された。これは1888年にスキーでグリーンランドを横断したフリチョフ・ナンセンの栄誉を称えるものだった。1897年、バーリンは市として再度法人化され、州内最北の都市となった。 1874年時点で、グランド・トランク鉄道が町の東部を通っていた〔。 20世紀の初期におけるバーリンの主産業はパルプと製紙業であり、その頃から長く衰退を続けてきた。地域の仕事が無くなり、人口が減り、1930年の国勢調査で2万人を超えていたものが半減した。1917年、バーリン・ミルズ社がブラウン・カンパニーと改称した。これは第一次世界大戦の時であり、敵国であるドイツに対する反感があったからだった。世界恐慌の直ぐ後で、ブラウン・カンパニーは管財人の監督下に入り、政府の援助で生き残り、第二次世界大戦後は何度も買収が繰り返された。 2001年、アメリカン・ティシューが破産を宣言し、その前に市税の納税を停止した。その設備は2002年にカナダのフレーザー・ペーパーズが買収した。しかし、2006年3月、フレーザー・ペーパーズはバーリンの製紙工場閉鎖を発表した。2006年5月6日、従業員250人が解雇され、そのうち幾らかはカスケード・ビレッジの製紙仕上げ工場に移動したが、多くは失業となった。 2006年10月3日、ミシガン州のノースアメリカン・ディスマントリング・コーポレーションがフレーザー・ペーパーのパルプ工場跡地121エーカー (0.49 km²) を買収したと発表した。さらに1年を使って工場を廃棄し再開発を行うと宣言した。その後レイドロー・エナジーLLCが大型回収ボイラーなど元フレーザーの資産の一部を購入し、2010年から2011年に66メガワットのバイオマス発電プラントに転換する考えである。 1990年代、地元の歴史家で著作家のポール・"プーフ"・ターディフが、新聞「ザ・バーリン・デイリー・サン」に地元の歴史に関する記事を書き始めた。ターディフは後にそれらを集めて『Once Upon a Berlin Time』という3巻本に編集した。 近年の経済発展は矯正施設に負うところが大きい。750床の北ニューハンプシャー矯正施設が1999年に建設され、約200人を雇用した。2012年、連邦政府刑務所局が1,200床の中程度警備施設を開設し、これは約350人を雇用している。 ファイル:Main Street, North End, Berlin, NH.jpg|メインストリート、1912年頃 ファイル:Mount Forest, Berlin, NH.jpg|マウントフォレスト、1912年頃 ファイル:Main Street, Berlin, NH.jpg|メインストリート、1914年 ファイル:Post Office Square, Berlin, NH.jpg|郵便局広場、1914年頃 ファイル:City Hall, Berlin, NH.jpg|市役所、1916年 ファイル:Gem Theatre, Berlin, NH.jpg|ジェム劇場、1917年 ファイル:View from Mason St. Bridge, Berlin, NH.jpg|町の外観、1920年頃 ファイル:Berlin Falls (1).jpg|町の外観、2007年頃 ファイル:MainStreetSouth.jpg|メインストリート・サウス、2007年 ファイル:GTRailroad.jpg|グランド・トランク鉄道、2007年 ファイル:04-Berlin.jpg|バーリンのウォーターフロント、2007年 ファイル:Berlin, NH.jpg|町の外観、1905年頃 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バーリン (ニューハンプシャー州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|